気になる書評14

今年第一弾もやっぱりミステリーから。

●吸血鬼と精神分析 [著]笠井潔

■戦後思想を問う本格ミステリ

 バスティーユにある要塞(ようさい)のようなアパルトマンで、ルーマニアからの亡命者が惨殺される。床に残された“DRAC”の血文字。本格ミステリにふさわしい導入部からは予想もつかない、思想と論理の迷宮が幕を開ける。
 本作は「矢吹駆(かける)シリーズ」の最新刊だ。70年代のパリを舞台に、ヒロイン・ナディアが事件に巻き込まれ、矢吹の“本質直感”が推理する。本シリーズで作者は、ミステリの形式で戦後思想を批判的に問うという複雑なミッションを着実に深化させている。精神分析を扱った本作は連載の初期から注目していたが、十年越しの試みは、みごとな果実をもたらした。
 ただし補助線は必要だろう。本作で俎上(そじょう)に載せられるのは、思想としてのラカン精神分析だ。シリーズ第四作『哲学者の密室』に実存主義哲学者ハルバッハ(=ハイデガー)が登場したように、本作で“暗躍”するのはジャック・シャブロル(=ジャック・ラカン)である。冷徹なまでの洞察力と典雅な趣味を併せ持ちながら、必ずしも高潔でも道徳的でもなかった分析家ラカン。本作で彼はレクター博士を思わせる魅力的な鬼畜キャラクターとして蘇(よみがえ)った。
 もともと精神分析は、ミステリとは相性が悪い。90年代を席巻したサイコサスペンスは、ミステリ界にトラウマのインフレーションをもたらしたが、その図式性には鼻白む思いがした。ミステリに必要なのは心理ではなく論理なのだという私の確信を、本作は見事に裏付けてくれている。
 本作におけるもう一つの挑戦は、いわゆる「多重人格」をもたらす「解離」のメカニズムに、精神分析の側から迫ることだ。解離と殺人をめぐる思考は、震災後の日本において(低線量被曝〈ひばく〉などの影響で)確率化された「死」という問題に重ねられる。その意味で本作には、ミステリと精神分析の新たな可能性すら示唆されている。
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 光文社・2625円/

朝日新聞 2012.1.8掲載書評より